(元)ホームレスの国際協力バカ大学生の毎日

Table For Two University Association代表。桜木花道に憧れた少年は5年経って途上国に給食を届ける大学生になりました。ずっとこどっこいの私が送るどったんばったんの日常をお送りします。

イエスマンが泣いた日(自己紹介④)

イエスマンが泣いた日

 

そして、大学一年生。

高校を卒業してすぐに髪を染めました。国際協力Table For Twoの活動をしている学内のサークルに入りました。

 

バイトは居酒屋と会社の事務員。国際協力好きの普通の大学生でした。

TFTに入ってからは全てにYESと答える一年生でした。

イベント統括の誘いもイベント参加の誘いも全部

「やります」

と答え、必死にやりました。

 

リスクヘッジなんてひとつもしませんでした。一年間で、いい出会いも嫌な出会いも成功体験も心の傷も増えました。

 

 

何もしないよりいいと、何度もなんども言い聞かせて自分を立たせていました。

 

特筆すべきは、大学入学から数ヶ月が経過した一年生の夏、NPO法人Caring for the Future Foundationの出会いです。私の人生を大きく変えてくれた人たちです。

 

とりあえず途上国に行きたいと思い、学内で行われる複数の団体の説明会に参加しました。

 

そこで出会った同じ大学の先輩が、私とCFFを出会わせてくれた恩人です。

彼女の説明を聞いて、

「この人のキャンプに行きたい」

と思いました。

 

そこで申し込んだのが第四十六回マレーシアワークキャンプでした。

CFF Malaysiaが運営する現地の児童養護施設にボランティアをしに行くキャンプです。

 

そこで出会ったキャンパー、子供達、それを支える人たち、全ての出会いが私に大切なものを教えてくれました。

 

そして、私に与えてくれた劇的な経験。

 

 

私はマレーシアで、事故に遭いました。

 

乗っていた車ごと水にのまれ、メガネも靴も流され、命からがら助かりました。

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しかし、私はそこで自分のホストマザーを亡くしてしまいました。

 

死を告げられたのは病院でしたが、岸辺で彼女が目を閉じた時の映像を私は忘れられません。

 

握った手を、雨の音を、足に刺さる石の感覚を覚えています。

 

彼女が死んだ後、

周りの人が悲しい顔をするたびに、涙を流すたびに

苦しくなりました。

 

「自分があのとき止まれと言えていたら・・・。」

 

「救う術を持っていたら・・・。」

 

考えても後悔しかありません。

次第に、自分が殺したのだと思うようになりました。

その時から私が抱えていることは二つあります。

 

  • あの時どうしたらよかったのだろう。
  • 彼女の死んだ意味はなんだったのだろう。

 

この二つが今でも分からずにいます。

 

日本に帰ってきてから、早く納得したくて救急法救急員と防災士の資格を取りました。

 

でも私は納得しきれませんでした。こんなことをしても彼女は帰ってこないのだと思うだけでした。

 

死生観というのは本当に人それぞれで、百人に聞いたら百人が違うことを言います。

 

たくさんの人に相談していたら、わからなくなってしまいました。

 

もし彼女の死んだ意味が、私の生きる意味になれば、その時が私の死ぬことのできる時なのかと思います。

 

 

 

そして今。

 

目立ちたがり屋で、飽き性で、屁理屈ばかりで、情けなくて、

 

おもしろいと美しいが好きな大学生です。

 

 

でも立つところと周りの目が変わったから、のびのびと生きられてはいませんが、頑張っています。

 

 

寝ずにPCを叩いたり、毎日打合せに行ったり、そんな多忙な生活がとても心地いいです。

 

 

ちょっと変かもしれませんが、とても満足しています。

 

 

私のお話はここまでです。

 

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WELCOME TO HELL(自己紹介③)

WELCOME TO HELL

 

私の学年は十一クラスありました。そのうち一組と二組が特別進学クラス(通称特進)、十組と十一組は二類進学クラス(通称スポクラ)でした。

 

私は一組、特進。

「希望していないのに・・・。」

 

入学式の時、先生に

「クラス、下げられませんか?」

と言いに行きました。

しかし答えは

「とりあえず一年は頑張ってみて」

とのことでした。

 

そこから不快で愉快な一組ライフが始まるのでした。

 

特進の男子は八人程度で、教室は他のクラスから少し離れたところにありました。

 

この男子達がなかなかの曲者ぞろいで、毎日私たちはおもしろいものを求めていました。

 

くしゃくしゃにする友達の書類は大事なものほどおもしろい、

先生の質問は逆に本気で手をあげる方がおもしろい、

「特進なのに」バカであるほどおもしろい。

 

常に自分たちを客観視しておもしろさを作っていました。

 

草陰から出てきた腐った弁当箱が学年主任に見つかったこととか、みんなで行った焼肉屋で牛タンを二十七人前食べて胃が壊れそうになったこととか

今でも思い出して笑えることばかりです。

 

 

しかしその反面、

火、水、木曜日は七時間授業+補習授業で学校が終わるのは午後六時半という生活でした。

 

これは大好きな吹奏楽ができないことを意味していました。

 

六時半から練習に行ってもついていけないことを知り、私は吹奏楽を、音楽家の夢を諦めました(今思えば他にも音楽家のなりかたはたくさんあったのになぁ)。

 

勉強は大好きだけど授業が嫌いな私は[嫌いな先生の授業]にアレルギー反応のようなものを示していました。

意地ではなく、「無理!!!!!!!」と体が拒否する感じでした。

 

そんな生活に耐えきれなくなった私は進級の際、普通クラスへの移動を希望しました。

 

二、三年生の間は何をしていたかというと、バイトと漫画と映画と生徒会です。

 

生徒会では一年生で議長、二年生で会長をやりました。

まだ自分がリーダーに向いていると錯覚していた時期です。二年だか三年だかで、ストレス性の胃炎になりました。

 

その時は家も学校もガタついていた時期で、逃げ場がなく、体が先に音をあげたのだと思います。

無理だと思ったら逃げていい。そんなことを学んだ胃痛でした。

 

二年生の秋の帰り道、(当時ロードバイクに乗っていたのですが)自転車でこけて右目の上を四針縫いました。

 

猛スピードの下り坂で、片手に持っていた袋が前輪に引っかかって高く高く飛んだ私は顔から着地しました。今でも眉毛を整えるたびに思い出します。

 

文字通り転げながら生きてきたのですが、高校三年生の卒業手前の期間、ランドセルを集めてアフガニスタンの子供達に送るなんてこともしていました。

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ブカブカのマジメ(自己紹介②)

ブカブカのマジメ

 

疑問を抱きながらも、面白くないマジメちゃんだった陽太郎はブカブカの制服を着て中学生になりました。

 

姉の影響もあり、吹奏楽部に入部しました。

この頃から意思決定の形が出来ていたのではないかと、十九の今思います。

 

何かを決めるときに、その判断が劇的なエピソードや、よく比較され考えられた理論に基づいていないということです。

 

吹奏楽部に入った決定的な理由なんてありませんでした。なんとなくでした。

 

よく言えば直感、悪く言えば流れです。

 

自分の今いる状況や、将来なんて考えていませんでした。

しかし二年半後、私はこの場所で音楽家を目指すようになります。

 

いるべき場所を選ぶために頑張るのではなく、一足早くどこかに降り立って動き始めるのが好きなのかもしれません。

 

私はよく、行動と思考のバランスを刀で例えます。

 

行動は斬ること、思想は磨くこと。

 

斬ってばかりいても切れ味は上がらないし、磨いてばかりいても斬り方を覚えられません。

その頃の私は、ボロボロの刀を何本も持って斬り続けているタイプでした。

 

部活ではチューバという吹奏楽の最低音を担う、大きな金管楽器をやっていました。

 

しばらくは「メロディ吹きたい欲」が止まりませんでしたが、(チューバは伴奏を担当しがちです)憧れの先輩のソロの伴奏を担当した時から、支える側も悪くないと思うようになりました。

 

その時演奏したムーンライト・セレナーデという曲は今でも思い出の曲です。

私が突然死んだらお葬式ではこの曲をかけてください。

中学校では合唱コンクールの指揮者とか、副部長とか、学級員とか、人前に出る機会がやたら多い生活でした。

 

この頃から「前ならえ」とか「整列」とかが大嫌いだった私は、並ばせる側に立てばいいのだとわかっていたので、責任感ややりがいではなく、

「向こう側に回りたくない」

という理由で意識的に人前に立つようにしていました。

 

中学校二、三年生の担任の先生は私に「美しい」という感覚を教えてくれました。

 

その先生は国語の先生だったのですが、授業のところどころで、その言葉がいかに美しいかを私達に教えてくれました。

 

友達関係といえば、どちらかといえばやんちゃな、先生から気に入られながらもよく怒られ、同級生の一部からは怖がられるような子達とずっと仲良くしていました。

 

今でも付き合いがあるのは彼らです。

理由は二つあります。

 

一つは私が彼らの何が怖いのかまるでわからなかったから(気づかなかったから)です。

「みんなトモダチ!イエイ!」

という感じでした。

 

もう一つは彼らの芯のある生き方に憧れていたから。

課題をやってこない、先生の言うことを聞かないなど。

 

それは彼らの哲学に反するからなのです。だれかの決めたルールが全てではなく、自分が納得するかどうかが重要なのです。

 

ただ大切にするものが違うだけなのに、一視点からの評価だけで彼らは時に下に見られてしまいます。

 

そんな時に不安な顔をして

「大丈夫??」と近づけど、彼らは

「それがどーした?」

と知らん顔でした。

 

そんな姿がかっこよくて、私は彼らといつも一緒にいました。

中学二年生の時、JICAのバスツアーに参加する機会がありました。部活イヤイヤ期だった私は同じ部活の子を誘ってそれに参加しました。

 

当時私がそのツアーに参加した理由は「練習をサボれるから」で、ツアーの情報は「お昼にカレーが食べられるらしい」ということ以外何も知らずに参加しました。

 

JICA地球ひろばのお兄さんから国際問題(特に貧困、紛争、災害)の説明を受けました。パネルとかビデオとかを見た記憶があります。

参加者の中学生は全員驚いたり、悲惨な状況に恐怖したりしていました。

そんな中私は、目を輝かせてワクワクしていました。

JICAのお兄さんに私のことをサイコパスだと思われても仕方がありません。

 

私がワクワクしていたのは

「この問題、世界中まだ誰も解決したことないじゃん!!!じゃあそれオレやりたい!!!みんなができないことやりたい!!!!」

という思いによるものでした。

 

その日の夜。私は生まれて初めて国際支援活動を始めます。

 

それは、シャワーを使わないでお風呂のお湯で体を洗うことです。

 

「すごい!!!!!!素晴らしい!!!!!これで今日から俺も国際活動家!!!!」

 

このとき(十三歳)の河内君のなにが素晴らしく、六年後の彼に活動するきっかけを与えたのでしょうか?

 

それは、彼はお風呂のお湯で体を洗うことが、世界のためになっているのだとまっすぐに信じて疑わなかったことです。

 

問題の大きさに萎縮したり、自分のやっていることが他に影響している実感が持てなくてモチベーションが下がってしまったりすることは少なくありません。

 

そこが盲点だったおかげで、彼は毎日せっせとお風呂のお湯を洗面器ですくっていました。

 

まさか自分の行動が(問題解決につながっているものの、)はるか遠くの糸の先にいることに気づかなかったのです。

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高校は自宅からの距離と自分の学力と受験方式と吹奏楽部のサウンドで決めました。

 

担任の先生と相談した結果「学力的に自分よりレベルの高い学校の下層にいるより、余裕のある学校の上層にいる方が頑張れる」という決め手で地元の私立高校を受験しました。

 

当時の担任の先生、両親が[偏差値の高い学校に入ることが生徒全員の目指すべきところではない]という当たり前ではありながらも素晴らしい考えの持ち主だったおかげで反対はありませんでした。

(そういえば当時の私は当たり前という言葉が大嫌いでした。)

 

しかし、ここでも私は高校生活がどんなものになるのか全く想像していませんでした。考えないから不安もない。そんな感じでした。

いざ高校に入ってクラス分け表を見ると[一組]の文字。

 

「地獄へようこそ」

 

と悪魔が不気味に笑ったのでした。

おしゃべりな神様(自己紹介①)

 

おしゃべりな神様

 

一九九八年十月八日、群馬県前橋市

時刻は零時二十八分。

 

河内家の二番目の子供として生まれた陽太郎は生まれた瞬間泣きました。

これからの人生(少なくとも十九年間)で彼を待ち構える苦しみ、辛さを神様に事細かに聞いてきたのでしょうか。

 

安心安全のママのお腹から出てきてしまいました。中にいれば安全なのに、何を思ったか私は予定よりも早く出てきました。

 

生まれてから何年間かは記憶がありません。

きっと見るもの触るもの食べるもの聞くもの全てのことが初めてだったはずなのに、その感動を覚えていないなんて悲しいことです。

 

親の話や保育園の連絡帳の記録から見るに、ものすごくうるさい子だったことが推測されます。

 

保育園の先生には「機関銃のようにうるさい子」と愛のあるメッセージをいただいたこともあります。

小さい頃から耳が悪くて、中耳炎を繰り返していました。

カルテの厚さで言ったらそこらの辞書よりあるくらいです。

 

小学校の頃は超元気でも超おしとやかでもなく、目立ちたがり屋の男の子でした(今も)。

 

特に「これが大好き!!!」というものはなく、漫画も好き、ゲームも好き、スイミングも少し、少年野球も少し、読書も少し。

 

何をやっても長続きしなくて、

熱しやすく冷めやすい性格でした。

 

学校の先生、少年野球の大人たちは、全員がいい人というわけではありませんでした。

 

厳しい練習の意味も、やる必要があるのかわからない宿題にも、怒りではなく疑問を持っていました。

 

「なぜこんなことをやっているのだろう」と考えることが多かった気がします。

 

しかし唯一続いたことがあります。

それは、音読です。

 

音読は、共働きで忙しい親が私とちゃんと向き合ってくれる大切な時間でした。

だから続いたのだと思います。児童書から始まり、「ドリトル先生アフリカゆき」「坊っちゃん」などを読みました。

 

今、人前で話すことに抵抗がないのも、話すことに喜びを感じるのも、音読の影響が大きいのだと思います。

 

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