(元)ホームレスの国際協力バカ大学生の毎日

Table For Two University Association代表。桜木花道に憧れた少年は5年経って途上国に給食を届ける大学生になりました。ずっとこどっこいの私が送るどったんばったんの日常をお送りします。

おしゃべりな神様(自己紹介①)

 

おしゃべりな神様

 

一九九八年十月八日、群馬県前橋市

時刻は零時二十八分。

 

河内家の二番目の子供として生まれた陽太郎は生まれた瞬間泣きました。

これからの人生(少なくとも十九年間)で彼を待ち構える苦しみ、辛さを神様に事細かに聞いてきたのでしょうか。

 

安心安全のママのお腹から出てきてしまいました。中にいれば安全なのに、何を思ったか私は予定よりも早く出てきました。

 

生まれてから何年間かは記憶がありません。

きっと見るもの触るもの食べるもの聞くもの全てのことが初めてだったはずなのに、その感動を覚えていないなんて悲しいことです。

 

親の話や保育園の連絡帳の記録から見るに、ものすごくうるさい子だったことが推測されます。

 

保育園の先生には「機関銃のようにうるさい子」と愛のあるメッセージをいただいたこともあります。

小さい頃から耳が悪くて、中耳炎を繰り返していました。

カルテの厚さで言ったらそこらの辞書よりあるくらいです。

 

小学校の頃は超元気でも超おしとやかでもなく、目立ちたがり屋の男の子でした(今も)。

 

特に「これが大好き!!!」というものはなく、漫画も好き、ゲームも好き、スイミングも少し、少年野球も少し、読書も少し。

 

何をやっても長続きしなくて、

熱しやすく冷めやすい性格でした。

 

学校の先生、少年野球の大人たちは、全員がいい人というわけではありませんでした。

 

厳しい練習の意味も、やる必要があるのかわからない宿題にも、怒りではなく疑問を持っていました。

 

「なぜこんなことをやっているのだろう」と考えることが多かった気がします。

 

しかし唯一続いたことがあります。

それは、音読です。

 

音読は、共働きで忙しい親が私とちゃんと向き合ってくれる大切な時間でした。

だから続いたのだと思います。児童書から始まり、「ドリトル先生アフリカゆき」「坊っちゃん」などを読みました。

 

今、人前で話すことに抵抗がないのも、話すことに喜びを感じるのも、音読の影響が大きいのだと思います。

 

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