ブカブカのマジメ(自己紹介②)
ブカブカのマジメ
疑問を抱きながらも、面白くないマジメちゃんだった陽太郎はブカブカの制服を着て中学生になりました。
姉の影響もあり、吹奏楽部に入部しました。
この頃から意思決定の形が出来ていたのではないかと、十九の今思います。
何かを決めるときに、その判断が劇的なエピソードや、よく比較され考えられた理論に基づいていないということです。
吹奏楽部に入った決定的な理由なんてありませんでした。なんとなくでした。
よく言えば直感、悪く言えば流れです。
自分の今いる状況や、将来なんて考えていませんでした。
しかし二年半後、私はこの場所で音楽家を目指すようになります。
いるべき場所を選ぶために頑張るのではなく、一足早くどこかに降り立って動き始めるのが好きなのかもしれません。
私はよく、行動と思考のバランスを刀で例えます。
行動は斬ること、思想は磨くこと。
斬ってばかりいても切れ味は上がらないし、磨いてばかりいても斬り方を覚えられません。
その頃の私は、ボロボロの刀を何本も持って斬り続けているタイプでした。
部活ではチューバという吹奏楽の最低音を担う、大きな金管楽器をやっていました。
しばらくは「メロディ吹きたい欲」が止まりませんでしたが、(チューバは伴奏を担当しがちです)憧れの先輩のソロの伴奏を担当した時から、支える側も悪くないと思うようになりました。
その時演奏したムーンライト・セレナーデという曲は今でも思い出の曲です。
私が突然死んだらお葬式ではこの曲をかけてください。
中学校では合唱コンクールの指揮者とか、副部長とか、学級員とか、人前に出る機会がやたら多い生活でした。
この頃から「前ならえ」とか「整列」とかが大嫌いだった私は、並ばせる側に立てばいいのだとわかっていたので、責任感ややりがいではなく、
「向こう側に回りたくない」
という理由で意識的に人前に立つようにしていました。
中学校二、三年生の担任の先生は私に「美しい」という感覚を教えてくれました。
その先生は国語の先生だったのですが、授業のところどころで、その言葉がいかに美しいかを私達に教えてくれました。
友達関係といえば、どちらかといえばやんちゃな、先生から気に入られながらもよく怒られ、同級生の一部からは怖がられるような子達とずっと仲良くしていました。
今でも付き合いがあるのは彼らです。
理由は二つあります。
一つは私が彼らの何が怖いのかまるでわからなかったから(気づかなかったから)です。
「みんなトモダチ!イエイ!」
という感じでした。
もう一つは彼らの芯のある生き方に憧れていたから。
課題をやってこない、先生の言うことを聞かないなど。
それは彼らの哲学に反するからなのです。だれかの決めたルールが全てではなく、自分が納得するかどうかが重要なのです。
ただ大切にするものが違うだけなのに、一視点からの評価だけで彼らは時に下に見られてしまいます。
そんな時に不安な顔をして
「大丈夫??」と近づけど、彼らは
「それがどーした?」
と知らん顔でした。
そんな姿がかっこよくて、私は彼らといつも一緒にいました。
中学二年生の時、JICAのバスツアーに参加する機会がありました。部活イヤイヤ期だった私は同じ部活の子を誘ってそれに参加しました。
当時私がそのツアーに参加した理由は「練習をサボれるから」で、ツアーの情報は「お昼にカレーが食べられるらしい」ということ以外何も知らずに参加しました。
JICA地球ひろばのお兄さんから国際問題(特に貧困、紛争、災害)の説明を受けました。パネルとかビデオとかを見た記憶があります。
参加者の中学生は全員驚いたり、悲惨な状況に恐怖したりしていました。
そんな中私は、目を輝かせてワクワクしていました。
JICAのお兄さんに私のことをサイコパスだと思われても仕方がありません。
私がワクワクしていたのは
「この問題、世界中まだ誰も解決したことないじゃん!!!じゃあそれオレやりたい!!!みんなができないことやりたい!!!!」
という思いによるものでした。
その日の夜。私は生まれて初めて国際支援活動を始めます。
それは、シャワーを使わないでお風呂のお湯で体を洗うことです。
「すごい!!!!!!素晴らしい!!!!!これで今日から俺も国際活動家!!!!」
このとき(十三歳)の河内君のなにが素晴らしく、六年後の彼に活動するきっかけを与えたのでしょうか?
それは、彼はお風呂のお湯で体を洗うことが、世界のためになっているのだとまっすぐに信じて疑わなかったことです。
問題の大きさに萎縮したり、自分のやっていることが他に影響している実感が持てなくてモチベーションが下がってしまったりすることは少なくありません。
そこが盲点だったおかげで、彼は毎日せっせとお風呂のお湯を洗面器ですくっていました。
まさか自分の行動が(問題解決につながっているものの、)はるか遠くの糸の先にいることに気づかなかったのです。
高校は自宅からの距離と自分の学力と受験方式と吹奏楽部のサウンドで決めました。
担任の先生と相談した結果「学力的に自分よりレベルの高い学校の下層にいるより、余裕のある学校の上層にいる方が頑張れる」という決め手で地元の私立高校を受験しました。
当時の担任の先生、両親が[偏差値の高い学校に入ることが生徒全員の目指すべきところではない]という当たり前ではありながらも素晴らしい考えの持ち主だったおかげで反対はありませんでした。
(そういえば当時の私は当たり前という言葉が大嫌いでした。)
しかし、ここでも私は高校生活がどんなものになるのか全く想像していませんでした。考えないから不安もない。そんな感じでした。
いざ高校に入ってクラス分け表を見ると[一組]の文字。
「地獄へようこそ」
と悪魔が不気味に笑ったのでした。