(元)ホームレスの国際協力バカ大学生の毎日

Table For Two University Association代表。桜木花道に憧れた少年は5年経って途上国に給食を届ける大学生になりました。ずっとこどっこいの私が送るどったんばったんの日常をお送りします。

防災士・救急法救急員として

防災士救急法救急員として

 

 

「土砂崩れに飲まれたことはありますか??」

 

 

「目の前で人が死んだことはありますか??」

 

 

二〇一七年の夏、初めてマレーシアを訪れた私は、ホストマザー含む何人かと一緒に車ごと土砂崩れに呑み込まれた

 

後から調べたら、それは四km四方の狭い範囲でのスコールだった。

 

叩きつけるような雨は視界と音を遮るほどだ。

雨によってできた川を渡ろうとした小さなバンは川の途中で動かなくなった。

 

次第に川の水位は増えていった。

「逃げろ!!!」

の合図とともに飛び出した何人かはあっという間に川に流されていき、遅れて出た私はバンのナンバープレートにしがみついた。

鯉のぼり状態だ。

勢いよく流れゆく水に靴と眼鏡を流されながら、

「助けて!!!!!!」

と大きな声で叫んだ。

 

やっとの思いで枝にしがみついて上がった岸には横たわるホストマザーの他に彼女の娘と日本人の友達しかいなかった。

 

ほどなくして、川辺でホストマザーは亡くなった

 

搬送先の病院で、私も注射を打ち足に刺さった針を抜いた。

 

絶望のどん底だった。

 

生き延びてしまったことが、死ぬことより辛い思いだった。

 

なんの知識も術も持たなかった私は、悔やみ続けた。

 

あの時彼女にすべきことはなんだったのだろう。

なぜ何もできなかったのだろう。

 

そんな思いが頭の中をぐるぐるぐるぐる回った。

 

日本に帰ってきて、私は防災士と救急法救急員の資格を取った。

 

 

辛い思い出が蘇ってくることもあったが、防災士の勉強は私にとって楽しいものだった。

特に災害史の部分に強く興味を持ち、たくさん勉強した。

 

今では、学生向けに防災講演をしたり、企業向けの災害マニュアルを作ったりしている。

 

彼女が死んで、私が生き残ってしまった意味を見つけたわけではない。

 

それを今も探し続けている。

 

 

 

 

防災士/救急法救急員

河内陽太郎

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